石黒好美の「3冊で読む名古屋」⑨ 今こそ、神さえも笑うマンザイを

ライター/社会福祉士の筆者が、名古屋にまつわる本をキーブックに、関連する2冊の本とあわせて読みながら世のありようを問います。
なごやメディア研究会 2024.01.21
サポートメンバー限定

【今回の3冊】

・『尾張万歳たずねたずねて(前編、中編、後編)』(岡田弘、名古屋市教育委員会文化財叢書)


3000人のマンザイ師

 知多半島には3000人ものお笑い芸人がいたという。

 大人はもちろん、時には子どもまでもが芸人となり、鉄道会社が特別に仕立てた「万歳列車」で知多から全国に巡業に行く――。「尾張万歳」と呼ばれるこの芸能は、大正時代から戦後にかけて空前の活況を呈した。

 尾張万歳は鎌倉時代に名古屋市東区の長母寺の住職となった無住国師が、仏教伝来の歴史を平易な言葉にして伝えたものが発祥とされている。陰陽師がこれに節をつけ、太夫と才蔵というコンビが鼓に合わせて歌い踊りながら家々を回る「門付芸」として受け継がれてきた。

 玄関先にいきなり見知らぬ二人組がやってきて、滑稽な歌や踊りをはじめるのを見てご祝儀を渡す、などということがあるのかと思ってしまう。けれど、日本には「めでたいことを言い続けるとその通りになる」という言霊信仰に基づく「言祝ぎ(ことほぎ)」芸や、神様は遠方からやってくるという「マレビト(異人・稀人・客人)信仰」がある。これらと結びついて、門付万歳は訪れる年神を迎え新年を祝うおめでたい行事として民衆に受け入れられてきた。折口信夫は太夫をマレビト神の転生した姿として見ており、才蔵との掛け合いは「天から来た神と土地にいる神」になぞらえていたという。

 もとより日本の信仰は「笑い」と切っても切れない関係にあった。アマノウズメは裸踊りで神々を笑わせて天岩戸を開き、仏教からは落語が生まれた。熱田神宮には「オホホ祭(酔笑人神事)」なる、神官がオホオホ、ワッハッハと大笑いすること自体を奉納する奇祭まである。「笑う門には福来たる」という通り、日本人は笑いの中に聖性を見てきたのだ。

今年1月6日に名古屋・金山の書店「TOUTEN BOOKSTORE」で披露された「東海市万歳保存会」のメンバーによる門付万歳。鼓を打ち鳴らし賑やかに訪れる。座敷では家の柱に神様を迎え、正月の飾り物を置くと七福神が舞い込むというめでたい内容の「御殿万歳」を披露。2人の才蔵は現在、高校生だという(筆者撮影)

今年1月6日に名古屋・金山の書店「TOUTEN BOOKSTORE」で披露された「東海市万歳保存会」のメンバーによる門付万歳。鼓を打ち鳴らし賑やかに訪れる。座敷では家の柱に神様を迎え、正月の飾り物を置くと七福神が舞い込むというめでたい内容の「御殿万歳」を披露。2人の才蔵は現在、高校生だという(筆者撮影)

農村の暮らしを支えた尾張万歳

 知多に万歳が伝わったのは、現在の東海市・知多市の一部が長母寺の寺領であったことによるが、万歳列車が出るほどの隆盛となったのは、知多に大きな河川がなく、農民が慢性的な水不足に苦しめられていたためでもあった。門付万歳は貧しい農民の出稼ぎ仕事でもあったのだ。

 「一か月門付に出れば、二か月分の生活費になった」と言われ、かなり実入りが良かったようで、高収入を求めて門付万歳をする人が増えたためだ。娯楽のなかった当時、門付万歳は各地で喜ばれ、また出稼ぎの農民たちにとっても楽しみの一つであったという。

 戦後になると愛知用水が整備されたこと、知多半島北部が製鉄などを始めとする臨海工業地帯となり地元に働き口が増えたことから、門付に出る人は急激に少なくなっていった。

現在の長母寺(名古屋市東区)。無住国師は矢田川の氾濫に苦しむ人々にも心を痛め、読み書きのできない村人たちに説法を行っていたという。「話芸の祖」とも言われている(筆者撮影)

現在の長母寺(名古屋市東区)。無住国師は矢田川の氾濫に苦しむ人々にも心を痛め、読み書きのできない村人たちに説法を行っていたという。「話芸の祖」とも言われている(筆者撮影)

 門付万歳が斜陽になった理由にはもう一つ、芸の質の低下もあったようだ。万歳は愉快な芸でありつつも、神棚や仏壇に奉納するため厳格な作法に基づいて行われるものでもあった。しかし、不作や凶作をきっかけに急ごしらえで門付に出た人の中には、歌や踊りがうろ覚えであったり、安易に笑いを取ろうと下ネタばかりに走る者もいたという。「万歳さんが来た」と人々に歓迎された門付芸は、次第に低俗野卑な「色もの万歳」とも呼ばれるようになってしまった。

 現在の「しゃべくり漫才」の祖といわれる昭和の漫才師「エンタツ・アチャコ」は、万歳のネタを祝言から日常会話や始まったばかりの野球の実況中継のパロディに変え、太夫と才蔵の掛け合いは「ツッコミとボケ」にした。横山エンタツは「インテリ万歳」という看板を掲げて公演していた。笑いの本来を取り戻し、新しい芸術に高めていこうという気概を持っていたのだ。

万歳から漫才へ、劇場からテレビへ

 万歳から漫才へと移り変わるにつれ、笑いの舞台は門付から演芸場へ、そしてテレビになった。

この記事はサポートメンバー限定です

続きは、2267文字あります。

下記からメールアドレスを入力し、サポートメンバー登録することで読むことができます

登録する

すでに登録された方はこちら

サポートメンバー限定
「書く福祉」のライターとして独立して、今こそ「遍路」へ・石黒好美の「3...
サポートメンバー限定
関口威人の災害取材ノート・能登半島地震「県ボラ」体験記
誰でも
能登復興のキーパーソンと名古屋で語ろう!【なメール2024年4月号】
サポートメンバー限定
僕が18年前に「育休」を取ってその後会社を辞めたわけ・関口威人の「フリ...
サポートメンバー限定
会社を辞めて福祉の世界に入ったら「草の根ささえあいプロジェクト」がすご...
誰でも
「東海のマスコミ70年」を一気読み!【なメール2024年3月号】
サポートメンバー限定
僕の「伝わる」文章術 「。」と「、」のセオリー編・関口威人の「フリー日...
サポートメンバー限定
クラブで遊びまくっていたら社会福祉士になった・石黒好美の「3冊で読む名...