僕が18年前に「育休」を取ってその後会社を辞めたわけ・関口威人の「フリー日和 (⌒∇⌒)□」その15

 なメ研代表理事/ジャーナリストの関口がフリー稼業の裏側と、ゆるりとした生き方について記します。
なごやメディア研究会 2024.03.30
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 私事で恐縮ですが、息子が大学に合格しました。

 名古屋からは遠い、はるか西の大学ですが、第一志望だったので本人も家族も納得しています。

 今まさに引っ越しの準備でドタバタですが、部屋の片付けなどを手伝いながら、ふと感慨深い思いにかられます。

 この子のおかげで今の自分があるなあと。

3カ月の育休の最終日、散歩中に撮った影。当時はまだガラケーだったので画質が悪くてすみません

3カ月の育休の最終日、散歩中に撮った影。当時はまだガラケーだったので画質が悪くてすみません

息子の誕生と「戦場」とのつながり

 2005年に息子が生まれたとき、僕はまだ新聞社でサラリーマン記者をしていました。

 そして1歳になる直前の3カ月間、当時は珍しかった育児休業を取ったことはこの連載の2回目で少し触れました。

 なんで育休を取ったかというと、本当は「戦場」に行くつもりだったからです。

 なんていうと大げさだし、日本政府からも否定されてしまうのですが、当時はアメリカ同時多発テロ、イラク戦争から続く混迷のさなか。アメリカ・ブッシュ政権がイラクのサダム・フセイン政権を強引にぶっつぶしたものの、イスラム過激派を中心とする反米武装勢力のテロが収まらないような状況の中、日本は復興支援のためにイラク南部のサマワへ陸上自衛隊を派遣し始めていました。

 当時の小泉首相はサマワを「非戦闘地域」だと言い張りましたが、2004年に陸自の第1次隊が派遣されたとたん、宿営地付近に迫撃砲が着弾。バグダッド近郊ではボランティアや取材活動をしていた日本人3人が武装勢力によって人質にされ、自衛隊の撤退が要求される事件まで起こりました。以来、自衛隊は細々と派遣を続けるものの、マスコミは取材に入れないという状況が続きます。

 僕はというと、名古屋社会部1年目の警察記者で、担当の警察署を回って事件事故の原稿を書きながら、当時開催された愛知万博の取材などにも駆り出されていました。

 その担当エリアの一つの名古屋市守山区に、たまたま陸自の第10師団がありました。

 

「イラクに行きそうな隊員を探せ」

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