【なメール有料版】関口威人の「フリー日和 (⌒∇⌒)□」その2・Twitterと僕の『ウェブ進化』
Twitterの動きから目が離せない1カ月でした。
先月27日にイーロン・マスクが買収を完了してから役員の解任、従業員の大量解雇、有料バッジの導入、そしてトランプらのアカウント復活…と本当に怒涛の展開。日本企業では考えられない決断とスピード感に「すげー」と驚きつつ、いちユーザーとしては使い勝手やセキュリティーがどう変わり、自分のアカウントがどうなるのか、やきもきするような毎日でした。
今ではイメージしてもらえないかもしれませんが、僕もTwitterはかなりのヘビーユーザーな時期がありました。
独立した翌年の2009年に「@sekiguchitaketo」のアカウントを作り、名古屋市政の動きや記者会見の開放などについて盛んにつぶやいてました。そして東日本大震災、特に福島の状況については現地の人たちや研究者の方々を含めて本当にいろんな議論をさせてもらい、学ぶことも多かったです。
でも、その反動というのか、2015年ごろには思いっきり「SNS疲れ」に。そこで気分転換に最初のアカウントを閉じ、「@newzdrive」の屋号にひっそり引き継いでみましたが、それも長続きはしませんでした。今も残ってる7年前のツイートは「NewsPics」のコメントと連動してみるなど、模索しておりました。まあNewsPicsさんもその後はアレになってきて…なかなか難しいもんだなあと思います。

遡れば、僕が初めてネットで発信したのは(メールを除けば)匿名のブログでした。
新聞社時代の2006年、知る人はよく知ってますが僕は3カ月間の育児休業を取りました。まだ男性の育休取得率が0.5%ぐらいだった時代。その理由は今回の本筋ではないし長くなるので、またいつかにします。とにかく、それまでいわゆる夜討ち朝駆けの社会部記者だった僕は、妻を働きに出した後、日中は生後9カ月の長男の育児と家事をワンオペでこなす逆転生活に入りました。
それは想像以上に大変で、毎日へとへとになりながら(妻から言わせると「まだ大したことないよ」でしたが)、夜は記録のためにとブログを書いていました。使っていたサービスは「FC2ブログ」で、今だとちょっとヤバいところかなと思うのですが、当時はサービスの数も限られていたし、育児系のブログが多かったので、見よう見まねで始めてみました。タイトルは「新米パパ記者の育休日記」なんてのに。もちろん今は全部削除してます。(ググっても出てこないのでちょっと安心しました)
「育休」中に偶然手にした一冊にのめり込む
そんなある日、散歩とネタ集めを兼ねて、ベビーカーを押して近所の書店に寄りました。そこで何気なく新書のコーナーで手にしたのが『ウェブ進化論』という本でした。最終的に40万部近くのベストセラーになったので、ご記憶の方も多いかもしれません。でも、僕が手にしたのは初版の奥付の発行日より前で、本当にたまたま書店に並び始めたばかりのタイミングだったようです。
著者は梅田望夫さんという、IT業界では既に有名だった人らしく、「はてな」や「アルファブロガー」なんて言葉もよく知らなかった僕は「ふーん」と思いながらパラパラとページをめくり始めました。
そうしたら本当に手が止まらなくなって、夢中になって読み込んでしまったんです。内容はグーグルが何を目指そうとしていて、アマゾンが何をどう売ろうとしているのかみたいな、今の僕らにとっては当たり前の話から始まるんですが、当時はとにかく新鮮でした。

そしてブログについても「総表現社会」の始まりの道具だみたいに書いてある。「おお、これはまさに…」というところで、ベビーカーで寝ていた子どもが起き出したので、本を手に慌ててレジへ。そして夜中は別のネタでブログを書いた後、一気に読んでしまいました。(妻にはやはり白い目で見られましたが)
内容は繰り返しますが、今となっては当たり前か、逆に「意識高過ぎ」て(少なくとも日本のネット空間では)実現できなかったようなこと。それでも、ネットやITの仕組みの話が、物事の捉え方や生き方にまでつながることに目を覚まされる感じでした。特にハッとしたのは、マニアしか使っていなかったパソコン通信の時代(Web1.0)と比べて、ブログとグーグル検索といった技術革新で進化したネット空間(Web2.0)を以下のように表現していたことです。
「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている。
これはブログを始めたばかりの自分の胸にすっと落ちたし、その後TwitterやFacebookを始めたときにも同じような感覚を持った人は多いんじゃないでしょうか。今はそれが伝わり過ぎちゃうというか、ゆがんで伝わっちゃうという問題になっているわけですが…。
1年半がかりで本人へのインタビュー実現
とにかく強烈な印象を抱いた僕は、育休を終えて社会部から文化部に異動したこともあり、この梅田さんに絶対取材をする!と決め、本人にメールで直接連絡を取り始めました。
拠点は米シリコンバレーなので、もし日本に帰って来られるなら…と伝え、何度かチャンスはあったものの、なかなか予定を合わせられませんでした。結局、1年半がかりのやり取りでなんとか東京でインタビューできることに。直接対面したときには本当に感激しましたし、2時間近くのインタビューもとても充実したものになりました。
梅田さんが言いたかったことは、日本の管理教育や企業社会が合わないな、おかしいなと思う人たちにとって、ネットは「大きな道具(武器)」になる。そして「大人が若い人を励まして、伸ばして、一緒に好奇心を抱いて生きていく」シリコンバレーの文化から、日本も学んでほしいということでした。
そうした言葉に僕は背中を押され、紙面化(2008年7月11日付け中日新聞・東京新聞夕刊「あの人に迫る」)された達成感も得られて、1カ月半後には退社していました。実際は、その1年前から辞めることを決めて上司にも伝えて準備はしていたので、インタビュー時には退社を決断していたことになります。そのことを後日、梅田さんにメールで伝えたら「そんな気がしてました(笑)」と返ってきました。
マスクはTwitterの「新しい人」か
梅田さんはこのインタビューを最後に「サバティカル(研究者らが研究や調査のために取る長期休暇)に入る」として、日本の論壇からは離れてしまいました。僕のインタビューでは、なかなか成熟しない日本のネット言論に対する失望感のようなものもあると吐露していました。