石黒好美の「書く福祉」・読むというケア、書くという信頼——『急に具合が悪くなる』を見て、読んで
生活に困ってChatGPTに相談し、何度かやり取りした後に「ささしまサポートセンターに相談するといいですよ」と勧められ、リアルの相談に繫がる人が増えています。(私は名古屋でホームレス状態にある人を応援するNPO法人ささしまサポートセンターで職員として働いています)
AIは「相談メールの文例」まで提案してくれます。「とにかく不安だけれど、自分が何に困っているかをうまく説明できない」「何を相談していいか分からない」という状態にある人がいることに、私もAIによってあらためて気づかされました。いまやメールやLINEで相談できる窓口があること自体は珍しくありませんが、これまではそこにアクセスできるのは、自分の気持ちや状況を自分で言葉にできる人だけだったのだな、と。
一方では、(おそらくAIの助けによって)きちんと内容が整理された文章なのに「これが本当にご本人の伝えたいことなのかなあ」と感じてしまうことがあります。むしろ、たどたどしく、情報も足りず、一体何に困っていて、どんな状況なんだろう……? と、一見「分かりづらい」メールなのに、なぜかその方の思いや不安がダイレクトに感じられることも。AIを使っても使わなくても、切迫した状況は同じだと思うのですが、何が違うのでしょうか。
そんなときに映画『急に具合が悪くなる』を見て、感動のあまり原作も読みました。(記事の内容は私個人の見解に基づくものであり、所属組織を代表するものではありません)

映画『急に具合が悪くなる』公式サイト
原作(書籍)はこちら
映画は原作を批評する
濱口竜介監督の翻案が凄まじい映画なのです。
原作はがんの治療中の哲学者の宮野真生子さんと、人類学者の磯野真穂さんの往復書簡です。互いがそれぞれの専門分野の言葉を使いながら、医療者と患者、偶然性とリスク、選択と自己決定、生と死……などについて、ときにユーモラスに、ときに号泣しながら交わしあいます。抽象的な概念について語り合うことの多いこの本を、よくぞ映画にしようと考えたものだと思います。
映画では「がん患者とその友人」という設定こそ同じですが、一方はフランス人だし、学者ではなく演出家と介護施設のマネージャーだし、舞台はパリだし、演劇、自閉症の少年、ユマニチュードというケアの技法など、原作にはない要素をたっぷり盛り込んでいます。にもかかわらず、「まさにこの映画は、原作そのものだ」と感じ入るシーンがそこかしこにあるのです。がんの悪化や転移の可能性を恐れてがんじがらめになる患者や医療者と、転倒のリスクを重く見て認知症患者に立ったり歩いたりするリハビリをさせない老人ホームのスタッフの姿が重なり、九鬼周造やティム・インゴルドを引用しながらの語りは、長塚京三の演じる一人芝居や、施設の美しい庭で繰り広げられるワークショップに引き継がれます。
「『批評』とは、他者の残した言葉を徹底的に読み解く(解釈する)ことによって、その言葉をまったく新たなかたちで甦らせる(『創作』する)ことだ」とは、文芸評論家の安藤礼二さんの言葉ですが、濱口監督は原作のほうの『急に具合が悪くなる』の優れた批評家であり、素晴らしい読者であったと言えるのではないでしょうか。
「読む」というラディカルな行為
原作に書かれている内容の通りに映像に置きかえるよりも、濱口監督のアイデアや解釈を取り入れたほうがずっと「原作らしい」と感じられる表現になるのはなぜなのでしょうか。
原作者の磯野真穂さんは濱口監督が、原作の「いいとこ取り」をして綺麗な花束を作るようなやり方ではなく、「宮野さんと私が作り出した言葉の下にある『土壌』を捉えようとしてくれた」と語っています。
『急に具合が悪くなる』を見たり読んだりすると、「読む」という行為が、表面的にあらわれた情報をただなぞるのではなく、その言葉を発した人の起源、歴史、内面、無意識……といった奥深くに潜む領域にまで迫ろうとすることなのだと実感します。
宮野さんと磯野さんは原作で「他者との偶然の出会いを引き受けることで、互いに新たな自分と世界が生まれ出す」という美しい結論に到達します。二人が「手紙(書簡)」という、時間をかけて届く言葉を互いの身体に通しながらやりとりするさまや、濱口監督が何度も何度も原作を読み返した末に「まったく新たなかたち(映画)で甦らせたこと」がまさにそれを体現していると思うのです。
逆に言えば、書かれている言葉を書かれているままに受け止めているだけでは、決して深いところまで「読む」ことはできない——「土壌」に到達することなく、ぱっと見て整ってはいるけれど、深みのない花束しか作ることができない、ということなのかもしれません。
前述した長塚京三の演じる芝居は、バザーリア(イタリアで精神病院を廃止し、患者が地域社会で暮らすことを押し進めた精神科医)を知らなければ、よく分からない台詞ばかりを連ねる前衛劇にしか見えないでしょうし、ユマニチュードもそのねらいや意味を理解しようとしなければ「手間ばかりかかる」「職員の負担が過大」「介護報酬に見合わない」という評価しか見いだせないでしょう。
結論を急がず、ひとつひとつの言葉や行為をじっくりと読まなければ得られないもの。そういったものやことの価値が、いま急速に失われているのではないか。AIがさっと差し出してくれる言葉に、私がどこか物足りなさを感じてしまうのも、このためではないかと思うのです。

きっと「読まれる」と信じて
介護であれ相談であれ、対人援助とは「助けてあげる」「与えてあげる」ことだと思いがちですが、その前に目の前の人を「読む」ことではないでしょうか。ユマニチュードの基本要素に「見る」「話す」「触れる」がありますが、相手の容貌、表情、視線、体温、手触りからその人となりを読み取る営みそのもののように見えます。乏しい表情、拙い言葉かもしれないけれど、私たちには周囲との関係や文脈と照らし合わせ、想像力を駆使して人の奥深いところまでを読み取る力があるのではないでしょうか。