川柳まさ裕の「写真週刊誌の記者が地方議員になるまで」①
2011年3月11日14時46分。東日本大震災が襲った。日本の大惨事。写真週刊誌の仕事をメインにしていた私は、翌日から被災地へひとりで取材に向かった。
どんな被災地へもいち早くかけつけ、被災地の深部まで取材することで「災害取材のエキスパート」と自負していた。しかし、石巻、気仙沼、そして陸前高田へと取材を進めるうち、精神に異常をきたす。
足元に横たわる遺体。身を寄せ合う被災者。自衛隊や警察による捜索。どれもこれも、取材しなくてはならないことばかりだけれど、地震という巨大なエネルギーによってもたらされた大津波の破壊力。絶対といわれてきた原発の安全神話が崩壊し、放射能は被災者や救助、救援に携わる人々の苦悩に追い打ちをかける。
そうした被災地のなかで、寒さとガソリン不足の末にたどりついた陸前高田の中学校の高台から見た光景。はるか彼方に見える海まで続く広大なガレキの山となった街の跡を目にしたとき。「世の終わり」を感じた。
報道という伝える使命の先にあるはずの「光」よりも、「絶望」を伝えることになりそうな、やるせなさに襲われ、身体が動かなくなってしまった。
あれから11年を経た今になって、あの日あの時のことが、私の心身が動かなくなった理由だったと思う。
高さ17mの津波に襲われた陸前高田の市街地。この被害に「絶望」を感じ、報じる使命が止まった(2011年3月14日午後、岩手県陸前高田市で川柳まさ裕撮影)