川柳まさ裕の「写真週刊誌の記者が地方議員になるまで」②
東日本大震災が起こった2011年まで、私は名古屋を拠点とした「取材チーム」のひとりだった。出版社や新聞社からの撮影を含む取材の依頼を遂行し、あるときは名古屋地区の担当記者として地方ネタなどの企画書を編集部にあげていた。
いまから10年以上前とはいえ、出版や新聞の活字媒体の衰退は顕著にみられ、取材体制も「経費節約」が最優先。原稿料やページ単価も安くなる一方だった。
そんな出版、活字不況の中で、私たちの仕事は萎む一方かと思われていたが、不況のなかでも不思議と底が見えていた。特に、全国的な雑誌や紙媒体の出版元からは、名古屋にいる私たちが重宝されていたのである。すなわち、東京から名古屋まで、交通費をかけて取材に行かなくてもいいわけで、それも都合のよい時だけ使える便利な存在だからである。
取材する対象は、街ネタからニュース報道まで多岐にわたるが、少なくとも、私は「取材に即応する」ことを大切にしてきた。
「突然のお願いですみませんが、明日、どこそこで、このような…」という取材依頼はザラで、私が対応できないときには、同報メールを仲間の記者やカメラマンに送って対応してもらい、「急な取材にも対応するありがたい存在」だったはずだ。
だから、おのずと発生モノの取材が多くなる。事件や災害が発生すればすぐに取材に行くので、必然的に「報道機関」の代行店のような位置づけになっていった。
そんな中、震災の少し前からブームになっていたのが「地方政党」だ。名古屋市長・河村たかし氏の「減税日本」や当時の大阪府知事・橋下徹氏の「大阪維新の会」など、古くて変わらない体質の既存政党への不信感を背景に、躍進していた頃である。
2010年末の名古屋では、河村氏らが主導した議会のリコール不成立を理由に、河村氏があえて市長を辞職。改めて民意を問うため再出馬して、翌年2月の愛知県知事選に大村秀章・現愛知県知事を担いで「ダブル選挙」をするなど、かつてない地方政治の嵐が吹き荒れていた。
政治の話題に感心の少ない大衆層にもウケたのか、全国発売の週刊誌でも様々な取り上げ方をしていた。
2011年の愛知県知事選に出馬した大村秀章氏の応援に駆け付けた橋下徹氏(左)と河村たかし氏(2011年1月21日、川柳まさ裕撮影/NAMEDIA)
私はニュース取材をする傍ら、なにかあれば、河村氏の自宅にある減税日本の本部に行き、「ああしてくれ」「このような取材をさせてくれ」とグラビアページの企画書を持ち込み、関係議員宅をまわっては地方政治ネタを集めていた。
普通の人が次々と、河村氏の人気に乗じて名古屋市議になってゆく姿をたくさん見てきた。
これなら、自分にもできるのではないか。
そのような思いと、前回で書いた経緯から、私は2011年4月の岐阜県羽島市議会選挙への立候補を決めた。
しかし、選挙まで1か月もなく、知名度はゼロ。そんな無所属の新人候補である私は、河村氏に「推薦」してもらえないだろうかと考えた。
さっそく、いつものように河村事務所に足を運ぶと、また取材かと煙たがられかけたが、あらたまって「立候補しようと思います」と告げた。
そのときの事務所のリアクションは覚えていないが、「上に伝えます」とは言われた。そして、審査のために自己紹介と政策、決議文を用意するよう求められた。